■朝食
ホテル1階の朝食コーナーでビュッフェ。
「Balance Morning」をコンセプトに、
ヘルシー感のあるメニューが用意されています。 |
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今日の観光は秋芳洞から。
8:30ちょっと前に駐車場に到着。
秋芳洞入口(正面入り口)まではちょっと距離があり、
道の両側にお土産屋さんが立ち並んでいます。
私たち以外人影がなく、
開始時刻を間違えたのかと不安になりましたが、
8:30に入場券売り場に着くと、
「おめでとうございます。一番乗りです。」
と言われました。
洞内に入ってからも
しばらくの間は誰も来なかったので、
貸し切り状態で鑑賞できました。
■秋芳洞
秋吉台の地下100~200mにある鍾乳洞。
岩手県の龍泉洞、高知県の龍河洞と並ぶ
「日本三大鍾乳洞」のひとつで、
国の特別天然記念物に指定されています。
総延長は約10kmに及ぶと推定され、
そのうち約1kmが観光コースとなっています。
約3億5千万年前~2億2千万年前に誕生した
サンゴ礁が地殻変動によって陸地化し、
石灰化したサンゴ礁が地下水などに溶け
洞窟となったものです。
洞内には石灰華段丘、鍾乳石、石筍、
石灰柱などが発達し、
百枚皿、傘づくし、黄金柱など多くの奇観を
見ることができます。 |
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秋芳洞入口
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百枚皿
水に溶けた石灰分が沈殿して皿のようになった石灰華段丘
皿の数は500枚以上。大きなものは直径4m
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青天井
入口近くにある高さ約25m、幅約35mの大きな空間
外からの光が川に反射して
天井が青く見えることから名付けられました
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百枚皿
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洞内富士
堆積した礫層の上に石灰分を含んだ水が流出
礫層を覆いつくすように固まったもの
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南瓜岩
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大松茸
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笣柿(すぼがき)
笣柿とは藁納豆のような笣(すぼ)を作って
中に柿を入れて軒下に吊るしたもの
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蓬莱山
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千町田
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傘づくし
1mほどの細長い鍾乳石が天井から垂れ下がっています
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ライオン岩
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大黒柱
天井を支えているかのような石柱
鍾乳石と石筍がつながったもの |
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千畳敷
幅80m、長さ175m、高低差35m
日本第2位(現存では第1位)の巨大な洞内空間 |
空滝
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黄金柱
秋芳洞のシンボル
高さ15m、幅4mの石灰華柱
天井の割れ目から流れ出る地下水に含まれた石灰分が
何万年もの時間をかけて岩肌に付着したもの
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岩屋観音
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蘇鉄岩
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猿すべり
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石灰華の滝
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巌窟王
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龍の抜け穴
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クラゲの滝のぼり
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五月雨御殿
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マリア観音から進むと黒谷口があります。
通常、黒谷口からバスやタクシーで
正面入口に戻る方が多いと思うのですが、
バスは平日なので運休、
タクシーは朝早いのでいないと思い、
洞内を折り返して正面入口に戻りました。
秋芳洞を出て、
秋吉台展望台に向かいます。
■秋吉台
美祢市に広がる日本最大のカルスト台地。
総面積は約54平方キロメートル。
国の特別天然記念物に指定されています。
地表には無数の石灰岩柱と
多数のドリーネ(すり鉢穴)が広がり、
地下には秋芳洞、大正洞、景清穴など、
400を超える鍾乳洞があります。
秋吉台は約3.5億年前、
暖かい太平洋上で珊瑚礁として誕生しました。
その珊瑚礁が長い年月をかけて
海洋プレートの上をゆっくり移動し、
やがて大陸のプレートにくっついて
押し上げられることで秋吉台になりました。
その後、数100万年前頃から
石灰岩が雨水や地下水によって溶け始め、
ドリーネや鍾乳洞ができました。
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マリア観音
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秋吉台展望台よりカルスト台地を望む
無数の石灰岩? 全然見えませんが・・・
6月以降は草丈が伸びてしまい、石灰岩が隠れてしまうそうです(涙)
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カルストロードをしばらく走ると、それらしい風景を見ることができました
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続いて萩に向かいます。
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■道の駅「萩往還」
萩城下の玄関口にあります。
幕末の思想家・教育者である
吉田松陰について学べる
「松陰記念館」を併設しており、
入口には高杉晋作や久坂玄瑞など
松下村塾の塾生と松陰の銅像があります。
松陰記念館には、
松陰が旅した後を光の道で示す日本地図や
松下村塾を再現したコーナーなどがあります。 |
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松下村塾を再現したコーナー
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高杉晋作(左)、吉田松陰(中央)、久坂玄瑞(右)
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山縣有朋(左)、木戸孝允(中央)、伊藤博文(右)
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品川弥二郎(左)、山田顕義(右)
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天野清三郎(左)、野村和作(右)
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■涙松跡
萩城下から山口・防府へと通じる萩往還
(藩主御成街道)にある松並木跡。
国指定史跡「萩往還」に含まれています。
江戸時代、萩を出発してここを過ぎると
萩の町が見えなくなってしまうため、
ここが城下を見ることができる
最後の見納めの地でした。
萩を出発した者は
松並木の間に見え隠れする萩を見返り、
別れを惜しんで涙し、
萩に帰ってきた者は
嬉しくて涙を流したということから
「涙松」と呼ばれるようになりました。
安政の大獄により
江戸に送られることとなった吉田松陰は
二度と故郷に帰ることができないと覚悟し、
「かえらじと思いさだめし旅なれば、
一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」
と、この地で詠んでいます。 |
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いよいよ萩市街地に入ります。
まずは昼食。
道の駅「萩しーまーと」へ。
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■昼食
「萩しーまーと」にある「浜料理がんがん」。
萩沖の魚介類をふんだんに使った海鮮丼や寿司、
刺身定食などが中心の和風海鮮料理店。
萩しーまーと内の市場で買った魚介を持ち込んで
好みの料理に仕上げてもらうことも可能です。
萩名産のうにと剣先いかを食べます。
「萩生うに丼」と「泳ぎいか刺身」に
白ごはんのセットを付けました。
妻とシェアです。
剣先いかのゲソは天ぷらにしてもらえます。
剣先いかは直前まで水槽で泳いでいたもの。
新鮮で身が透き通っています。
生うには口でトロける感じで、とても甘かったです。
新鮮な萩の魚介を堪能しました。 |
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萩生うに丼
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泳ぎいか刺身
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ゲソの天ぷらと白ごはんのセット
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満腹になったところで、観光に戻ります。
まずは萩市街中心部にある萩・明倫学舎へ。
■萩・明倫学舎
旧藩校明倫館跡地に建ち、
平成26年3月まで授業が行われていた
日本最大の木造校舎・旧明倫小学校を改修整備し、
平成29年3月4日にオープンした施設。
旧萩藩校明倫館展示室、
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を紹介する
「世界遺産ビジターセンター」や
幕末の歴史をひもとく貴重な資料を一堂に紹介する
「幕末ミュージアム」などがあります。
藩校明倫館は、享保3年(1718年)に
長州藩5代藩主・毛利吉元公が
萩城三の丸に建てたのがはじまり。
約130年後の嘉永2年(1849年)に
14代藩主・毛利敬親公が現在地に移転し、
規模を拡大しました。
宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、
西側に学問習得のための建物、
東側に剣術・槍術・射術などの武芸修練場、
後方に水練池、北方に練兵場が設けられました。
水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、
日本三大学府の一つと称され、
吉田松陰や小田村伊之助も教鞭をとりました。 |
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南門(萩市指定有形文化財)
明倫館の正門
藩主が聖廟を拝する春秋の「釈菜(孔子祭)」や
公式行事以外は開かれませんでした |
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観徳門(萩市指定有形文化財)
孔子を祀った聖廟の前門
南門と聖廟との中間に位置していました |
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有備館(国指定史跡)
剣術場と槍術場
藩士の練武のほか、他藩からの剣槍術の
修業者との試合も行われていました
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有備館の剣術場 |
■江戸屋横町
萩城の外堀から外側に広がる城下町は、
町筋は碁盤目状に区画され、
武家屋敷や商家が軒を連ねていました。
現在でも町筋はそのままに残り、
往時の面影をとどめています。
東西にのびる御成道に面して藩の豪商、
江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、
御成道から南へ入る三つの横町には
それぞれの名が残されています。
江戸屋横町には木戸孝允の旧宅や、
蘭方医・青木周弼の旧宅、
高杉晋作・伊藤博文ゆかりの円政寺などが並び、
黒板塀の風情ある横町となっています。 |
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■青木周弼旧宅
13代藩主・毛利敬親公の侍医を務めた
青木周弼が生まれ育った屋敷。
安政6年(1859年)に建てられたものですが、
あまり改造されていないため
当時の様子をよく残しています。
青木周弼は日本屈指の蘭学医。
藩医・能美洞庵に入門して漢方医学を学んだ後、
大阪に遊学して蘭学を修めました。
その後、江戸で蘭医学を学び、
長崎に遊学した際にはシーボルトに師事しました。
藩医となってからは
藩の医学館(好生堂)の創設に尽力し、
多くの弟子を育てあげました。
幼少の頃の高杉晋作の天然痘治療にあたり、
一命をとりとめたというエピソードが残っています。 |
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■木戸孝允旧宅
江戸屋横町にある木戸孝允(桂小五郎)の生家。
国指定史跡。
当時としては珍しい木造桟瓦葺き2階建ての家で、
孝允が誕生した部屋など12もの部屋があります。
勉強部屋には少年時代の手習いの書や
写真などが展示されています。
木戸孝允は幕末の長州藩士、明治期の政治家。
藩校明倫館で吉田松陰に兵学を学び、
その後、江戸で剣術の免許皆伝を得て
剣豪の名を天下に轟かせました。
江戸では多くの志士たちと交流しながら、
藩の尊皇攘夷派のリーダーへと成長。
藩庁政務座の最高責任者になってからは、
薩長同盟締結や四境戦争(第二次長州征討)
などに尽力しました。
明治新政府では総裁局顧問となり、
五箇条の御誓文の起草に参画、
版籍奉還や廃藩置県などを推進しました。
明治4年(1871年)には
岩倉遣外使節団に副使として参加、
その後、文部卿、内務卿など
政府の要職を歴任しましたが、
西南戦争の最中に45歳で病死しました。
西郷隆盛、大久保利通とともに
「維新の三傑」と呼ばれています。 |
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座敷
掛け軸には七・八歳頃の孝允の手習いの書
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仏間
掛け軸には十一歳頃の孝允の手習いの書
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■伊勢屋横町
菊屋横丁・江戸屋横丁とともに
国指定史跡「萩城城下町」に含まれる小路。
御成道に面して呉服商・伊勢屋があったことから
この名が付けられました。
元禄の頃には絹織場があり、
絹機の職人を置いたことから絹機屋町とも
呼ばれていました。
伊勢屋横町には、
萩出身で初代群馬県令となった楫取素彦が
12歳の時に養子となった小田村家がありました。
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■旧久保田家住宅
江戸時代後期に御成道に面して建てられた町屋。
萩市指定有形文化財。
近江から萩に移って呉服商を開いた久保田家は
二代目から酒造業に転じ、
明治時代には名士の宿所としても利用されました。
現在、厨子二階をもつ母屋、土蔵、離れが
残っています。
幕末から明治前期にかけての建物として
意匠・構造など当時の建築技術を良く伝えており、
国指定史跡萩城城下町を構成する
極めて重要な建物です。
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■菊屋家住宅
菊屋家は毛利輝元公の萩入国に従い、
山口から移ってきた藩の御用商人。
大年寄格に任命され、
萩城下の街造りに尽力しました。
建物は江戸時代初期に建築され、
現存する商家としては最古の部類に属する
きわめて貴重なものです。
5,470m²という広い敷地内には
なまこ壁の蔵が立ち並び、
主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が
国の重要文化財に指定されています。
瓦葺き切妻造りの主屋は広い座敷をもち、
度々、幕府巡見使の宿として
本陣にあてられていました。
各部屋には藩主からの拝領品や古書、
民具、衣装など約500点が展示されています。
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書院
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主屋座敷
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御成門
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■菊屋横丁
国指定史跡「萩城城下町」の西側に位置する小路。
豪商・菊屋家の脇を通る横丁であることから
この名が付けられました。
江戸時代当時の景観をよく残した
白いなまこ壁の続く美しい横町で、
「日本の道百選」の一つに選ばれています。
この通り沿いには、
幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、
第26代総理大臣・田中義一の誕生地があります。 |
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■田中義一誕生地
田中義一は明治期の軍人、政治家。
陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業後、
日清戦争に出征、戦後はロシアに留学しました。
日露戦争では満州軍参謀として
総参謀長・児玉源太郎のスタッフを務めました。
その後、陸軍大臣・陸軍大将を経て、
昭和2年(1927年)、金融恐慌の渦中に
第26代内閣総理大臣に就任。
その際、政界を退いていた高橋是清を蔵相に招いて
支払猶予措置(モラトリアム)を実施し、
金融恐慌を収束させたことが
田中内閣の大きな功績の一つになっています。
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■高杉晋作誕生地
幕末の風雲児・高杉晋作が生まれ育った家。
当時の旧宅の一部が現存していますが、
個人所有のため外からの見学のみとなります。
高杉晋作は幕末の長州藩士。
萩藩大組士・高杉小忠太の長男として生まれました。
藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、
久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。
文久2年(1862年)、
外国に支配される清国の上海を視察。
現地の実情を見て危機感を抱いた晋作は、
倒幕の考えを持つようになりました。
文久3年(1863年)6月、身分を問わない
我が国初の軍隊「奇兵隊」を結成。
文久4年(1864年)12月、藩を台頭する
俗論派(幕府を擁護する勢力)を排斥するため
力士隊や遊撃隊などを率いて功山寺で挙兵。
翌年3月に俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して
藩論を倒幕に統一することに成功しました。
慶応2年(1866年)6月の四境戦争では
海軍総督として戦闘指揮を執り、
長州藩を勝利に導きました。
戦い続けた晋作は持病の肺結核が悪化し、
慶応3年(1867年)4月、
27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。 |
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産湯の井戸
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誕生地碑
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■高杉晋作立志像
高杉晋作誕生地の近くにある晋作広場に
平成22年10月に建立されました。
銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた
20歳頃の凛々しい顔をイメージしており、
珍しい髷姿で両刀を差した羽織、袴の立ち姿。
晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられており、
広場には萩名物の夏みかんや
晋作が好きだった梅の花も植樹されています。 |
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ここでちょっとブレイク。
JTBの萩街あるきクーポンの
ソフトドリンクのサービスを使います。
お店は「俥宿天十平」。
江戸時代の旧家をそのまま使った
ギャラリー&カフェです。
ドリンクは「夏みかんジュース」。
歩き疲れた身体にぴったりです。
おいしくいただきました。
再び観光に戻ります。
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■小田村伊之助(楫取素彦)旧宅地
小田村伊之助は幕末の長州藩士、
(のちに藩命により楫取素彦と改名)
明治期の官僚。
藩医・松島瑞璠の次男として生まれ、
12歳の時に儒者・小田村吉平の養子となりました。
藩校明倫館で学び江戸に出て、
帰国後は明倫館で儒学を教授しました。
その後、吉田松陰の妹・寿と結婚。
松陰の入獄後は後継者として、
松下村塾でも指導にあたりました。
四境戦争では幕府側との交渉にあたり、
明治維新後は地方官を経て、
初代群馬県令を10年間務めました。
妻・寿と死別後、松陰のもう一人の妹で
久坂玄瑞の未亡人・文(美和子)と再婚しました。
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■久坂玄瑞進撃像
具足姿に陣羽織という出で立ち。
激動の時代に信念を持って
進むべき道を指し示した玄瑞の姿を表現しています。
久坂玄瑞は幕末の長州藩士。
藩医・久坂良迪の三男として生まれました。
藩校明倫館や松下村塾などで学び、
松下村塾では高杉晋作と並んで
「松門の双璧」と称されました。
安政4年(1857年)、吉田松陰の妹・文と結婚。
文久2年(1862年)の英国公使館焼き討ちや
翌年の下関外国艦船砲撃に参加するなど、
長州藩の尊皇攘夷運動の先頭に立って
精力的に活動しました。
元治元年(1864年)、禁門の変に参加。
武力入洛には慎重論を唱えましたが、
来島又兵衛らの進撃論に押し切られ出撃。
一軍を指揮するうちに膝に弾丸を受け、
鷹司邸にて寺島忠三郎と互いに刺し違えて自害。
25歳の生涯を閉じました。
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「秋の全国交通安全運動」期間中だったため、
交通安全のたすきをかけていました
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■山縣有朋銅像
久坂玄瑞進撃像と同じ萩市中央公園にあります。
山縣有朋は明治期の軍人、政治家。
中間(ちゅうげん:足軽以下の低い身分)・
山縣三郎有稔の長男として生まれました。
藩校明倫館の入学資格がなかったため、
身分を問わない松下村塾に入門。
高杉晋作が奇兵隊を創設すると直ちに入隊し、
軍監(副将)となって四境戦争などで活躍しました。
明治維新後は新政府の軍備面に精力を注ぎ、
徴兵制を施行させるなど軍制確立に尽力。
日清・日露両戦争では
陸軍の最高指導者として活躍しました。
その後、内閣総理大臣に二度就任し、
元老として政界を支配しました。
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■旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
毛利家一門のひとつ、厚狭毛利家の武家屋敷。
往年には約15,500㎡の広大な敷地を
誇っていましたが、
主屋などは明治維新後に解体され、
現在はこの長屋のみが残っています。
国指定重要文化財。
安政3年(1856年)築。
梁間5m、桁行51.5mの長大な本瓦葺き入母屋造り。
萩に現存する武家屋敷の中でも
最大の規模を誇ります。
式台および縁付で、
5つに区画された内部には土間がなく、
畳廊下を配した格調高い造りであることから、
身分の高い者に対して用意された
詰所であったと思われます。
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■本日のお宿
松下村塾の近くに建つ旅館「萩本陣」。
敷地内に源泉が湧出しており、
萩城下町をイメージした
城壁露天風呂や土塀露天風呂のほか、
立ち湯、寝湯、歩行湯など14種類の湯めぐりを
楽しむことができる湯屋街「湯の丸」があります。
平日で空き室があったためか、
部屋をグレードアップしていただけました。
まずは予約しておいた貸切風呂に入り、
その後、「湯の丸」で露天風呂などを楽しみました。
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貸切風呂
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■夕食
館内の食事処「旬の丸」で
山口県産の食材をふんだんに使った特選会席。
けっこう種類が多かったのですが、
とてもおいしかったので箸が進み、
すべて残さず食べることができました。
メニューは下記のとおり。
<御献立>
食前酒 :ノンアルコール梅酒
前菜 :旬の味覚盛り
郷土料理:いとこ煮
造り :本日のおすすめ
焼物 :見蘭牛陶板焼き
蓋物 :鯛荒焚き
冷鉢 :季節の葛包み
強肴 :真ふく 車海老ポワレ
蒸物 :ふかひれ茶碗蒸し
鍋替 :鮑踊焼き
御飯物 :山口県産こしひかり
留碗 :地魚清まし仕立て
果物 :オリジナルプレート |
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ノンアルコール梅酒
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旬の味覚盛り |
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いとこ煮
(冠婚葬祭に欠かせない山口県の郷土料理) |
本日のおすすめ造り
マグロ、タイ、イカ、ヒラサ
(山口ではヒラマサのことをヒラサと呼びます) |
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見蘭牛陶板焼き
(見蘭牛は萩で飼育されてきた日本在来牛「見島牛」に
ホルスタインをかけ合わせた萩のブランド牛) |
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地酒呑み比べを注文しました
長陽福娘(左)、長門峡(中央)、獺祭(右) |
鯛荒焚き |
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季節の葛包み |
真ふく 車海老ポワレ
(山口では「ふぐ」のことを「福」につながると
縁起をかつぎ「ふく」と呼びます) |
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ふかひれ茶碗蒸し |
鮑踊焼き |
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山口県産こしひかり、地魚清まし仕立て |
果物オリジナルプレート |
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夕食の後はSL型シャトルバスに乗って、
奥萩展望台にある足湯へ。
萩の夜景を眺めながら足湯を楽しみました。 |
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